ティッシュの袋を挟む粘土層
地質班では巨椋池の粘土層の調査を隠元橋付近や、観月橋の付近で行なっています。

特に旧巨椋池の研究と復元図の研究に力を入れています。
この研究は2009年度の学生科学賞を受賞しました。
ここではその研究について説明します。




  
           『旧巨椋池の地層の研究と復元図』

1.はじめに      

我々京都府立桃山高等学校地学部(現グローバルサイエンス部)は、5年前から宇治川の河原のレキ調査や桃山丘陵・宇治丘陵の大阪層群の調査を行なってきた。また昨年度から、旧巨椋池の歴史を解明するために宇治川の河川敷に堆積している地層の調査を行なってきた。その中で、今年度5月の調査においてヒメコガネなどの昆虫化石を発見した(図1)。この発見によって、旧巨椋池の粘土層(泥土層)の堆積した年代が明らかになった。  今回、この論文において、我々の調査で明らかになった旧巨椋池の古環境についての考察と復元図の作成も同時に行なった。  さらに、豊臣秀吉が太閤堤で宇治川を切り離して以降の地層についての観察も行ない考察を行なった。 



2.巨椋池の変遷

現在、京都市伏見区の南部から宇治市の西部、久御山町の北東部にかけて広大な田地が広がっている。ここには、今から約六十年前、干拓によって姿を消す以前の巨椋池が存在していた。 北からは桂川、南からは木津川が、そして東からはその源を琵琶湖とする宇治川が京都市南部の地に巨椋池としてあつまり、そこから流れ出る水が大阪に流れる淀川になっていた。(図2) 干拓前の巨椋池は、東西4km、南北3km、標高11.4m、周囲16kmの京都府下最大の淡水湖で、水域面積は794ha、水深は池の大部分が0.9m以下という、広大な割には極めて浅い池であった。この池には、多くの魚貝類や鳥類が生息し、またヨシ・マコモ・ハスなどの水生植物が繁茂していた。巨椋池の基本的な性格と特徴は、淀川水系の中流域にあって洪水調節の機能を担い、水量によって大きくその形を変える遊水地というところだった。 巨椋池の始まりは約180万年前に起こった激しい地殻変動で京都盆地が形成され始め、中生層の基盤が陥没した凹地に水がたまったところから始まる。2003年の京都市地下構造調査において、京滋バイパス久御山ジャンクション付近で深層ボーリングが行われ、最下底の深さ約700mで普賢寺火山灰(井手火山灰)が見つかった。このことは、巨椋池の付近は約180万年前頃から沈下をし始めたことになる。その後は、大量のレキ層が堆積した時代や海水(大阪層群の海成粘土層)の侵入した時代がある。やがて、氷河期以降になった巨椋池に堆積している粘土層には海水性の珪藻類を含まないことから、大阪平野に海水が広がった縄文海進(約6000年前)以降になって池の輪郭というべきものができ上がったものと思われる。そして湖面は次第に縮小し、最後に最低地に残ったのが巨椋池である。 この池が人間の手で大きく変えられたのは、伏見築城の時(1596年、慶長元年)である。 豊臣秀吉は都に近いことと、淀川による水運の便利さに着目して、伏見丘陵の南端に城下町を作った。輸送路整備や奈良・大坂からの交通路を伏見に集中させるために宇治川を巨椋池から分離して迂回させ、巨椋池の中に堤防を築き奈良街道を通した。その後、桂川と木津川も流路の変更によって池から切り離された。頻発する水害を防ぐため、明治初年から治水の近代化が図られ、河川の改修工事が順次行われていった。そして明治43年(1910年)、淀川改良工事の完成により巨椋池は宇治川と完全に分離された。 こうして、巨椋池は完全に独立したが、それでも毎年おこる洪水のときには、巨椋池には逆流した水があふれ、周囲の集落や水田は大きな被害を被っていた。それに加えて、昭和になって戦争機運のもと、国の食糧増産のための耕地拡張という名目で、ついには干拓されてしまった。こうして淡水生物の宝庫は消滅し、広い水田となったのだ。 しかし、もともと低い土地へ入る水を止めただけなので、時折洪水に見舞われる。中でも昭和28年(1953年)の南山城水害の時には大洪水に襲われ、一時、元の池の状態になったことまである。 高度経済成長期を迎えると、都市化がこの干拓地周辺にも波及してきた。向島地区では元の池の場所に高層団地が林立し、さらに京滋バイパスと京奈バイパスが、かつての池の真ん中を走るようになった。それでも田んぼにはたくさんの水生動物や植物が今でも多く生息している。



3.調査地点

昨年、今年と旧巨椋池の環境復元のために行った調査場所は、京都府宇治市五ヶ庄(隠元橋上流500m)の宇治川河川敷である。(左図:調査地点の様子 写真の左側が北である)  









(調査地点の様子 写真の左側が北である)





ここは、宇治川の中に取り残された中州であり、この中州の形成以降にも宇治川の下方浸食が進み(約5m)、河岸段丘のような地形を呈している。(右図・右下図)





                     
                                                    (上の写真の右端の宇治川に流入する川の流入口に現れた地層の断面の様子)




4.調査地点の柱状図および地層の特徴


右図は、調査地点の柱状図である。本地域の最下底の粘土層が旧巨椋池の粘土層(泥土層)にあたる。
この粘土層の厚さは約65cmである。その上に、2層のレキ層が存在する。各々のレキ層は見た目で違いがわかる。下のレキ層のレキの形状は亜円レキ〜亜角レキのものが多く、平均レキ径は3〜4cmで、最大のもので7cm強である。上のレキ層のレキの形状は亜円レキ〜亜角レキ、平均レキ径は2〜3cmで、レキ径は最大のもので7cmである。この2層のレキ層はレキ種が大きく違うが、この点は後で述べる。
その上位の砂層は、厚さ85cmほどで、平均粒径0.23cm、クロスラミナが発達し非常に流れの速い所で形成されたことがわかる。(図7)その上位に砂レキ層が堆積しており並行ラミナが見られ、全体の厚さは70cmほどで亜円型のレキが多く、平均粒径1〜2cmほど、レキ径は最大で4cmである。その上の粘土層は厚さ15cmで最上位の地層である。その粘土層の中から、下の写真(図8)のようなポケットティッシュが発見された。配布元の(株)武富士に問い合わせてみると、そのティッシュは平成19年以降に配布されていることがわかった。同じ年の7月14日に宇治川で洪水注意報が発令されており、調査地点の中州を超える増水があったことから、その洪水の折に流されてきたものと考えられる。また、このことは、このティッシュを含む粘土層が、平成19年7月14日に堆積したものであることが判明した。













(クロスラミナの発達した地層の写真)








5.旧巨椋池の粘土層について

宇治市史、巨椋池干拓史によると、巨椋池の粘土層は、下部の軟粘土層(縄文海進以降約4000年間に堆積したもの)と上部の泥土層(軟粘土層堆積以降約2000年間に堆積したもの)とに区分されている。(図の硬粘土は縄文海進以前の堆積物とされる。) 今回は、このうち上部の泥土層の調査を行った。この泥土層が分布する八幡市御幸橋木津川河床の粘土層(木津川遺跡)からは土器が多数発見されており、その土器の年代から地層は鎌倉時代に堆積したものされている。  今回の調査地点においては、過去に地質に関する報告はされていない。(観月橋の下流にある横大路沼に分布する泥土層の層厚は約2mで、植物化石の報告がある。)  今回の調査地点の泥土層は、この露頭の最下底で65cmの層厚(地面より下にどれだけ地層があるかはわからない)で、下部の約25cmが有機物の多い暗青灰色の粘土からなり、上部の約40cmは明灰色のシルト層からなっている。泥土層と上位のレキ層との間は不整合関係で浸食されているのがわかる。(図10) 後述するが、この泥土層の上面から50pの位置で昆虫化石を発見した。この化石の発見によって、地層の年代を「鎌倉〜室町時代」と決定することができたが、このことから、この泥土層の堆積速度は、1o/年以上と推測される。(約1200年頃から1600年頃の間に50p以上堆積した。)


指さしているところから化石が発見された。


6.粘土層中の昆虫化石の発見

旧巨椋池の泥土層からは、横大路沼において「コナジラミ科(Aleyrodidae)」の昆虫化石が一種類発見されている(石田志朗・山川千代美1999)が、それ以外の昆虫化石の報告はない。 今回の調査(2009年5月3、4日)において、昆虫化石を10個体(同定されたものは3種類)発見した。この発見によって、旧巨椋池の泥土層の堆積した年代を明らかにするとともに、旧巨椋池の周辺に群生する植生を明らかにすることが出来た。 ここでは、その研究方法とその意義について述べたい。

@研究方法  
1.旧巨椋池の泥土層をスコップで採掘、採取する。 2.採取した粘土を手で割り、その中に含まれる化石を探す。 3.堆積物をサンプル袋にいれて持ち帰り、後日ふるいにかけ昆虫化石を選り分ける。 発見した化石については、京都教育大学田中里志先生、金城女子大学の森勇一先生に鑑定をしていただいた。

A地層の特徴  
泥土層は、この露頭では65cm以上と考えられる。地層は下部の25cmが暗青灰色で、上位の40cmは明灰色の粘土層から成っている。この二つの地層の色の違いは、中に含まれている有機物の量の違いによるものと考えられる。そして、泥土層の上面から50cmの位置(暗青灰色の部分)から今回昆虫化石が発見された。

B化石発見の意義
前述したように、旧巨椋池の地層からの昆虫化石の報告は1例のみであり、また、甲虫化石の報告としては、今回のもの初めてである。(左図) その化石の1つは、「ヒメコガネAnomala rufocuprea)」の胸の一部分である。 ヒメコガネは、中世(鎌倉〜室町時代)に大繁殖した甲虫で、遺跡調査においては重要な示準化石となっている。このヒメコガネの化石の発見により、化石が出てきた地層(泥土層)が鎌倉〜室町時代に堆積したものであることが判明した。ヒメコガネは広葉樹を主食としている昆虫で、当時、巨椋池の周囲には広葉樹が生い茂っていたこともわかる。(現在のヒメコガネの写真 右図)

7.粘土層中の珪藻化石から見た巨椋池

@ 珪藻化石とは 珪藻は分類学的には不等毛植物門(または黄色植物門)珪藻綱に分類される単細胞の藻類である。細胞の1つ1つは珪酸質の細胞壁で覆われており、一般に上下2枚の殻が重なって弁当箱のような構造をしていると言われている。細胞の大きさは数マイクロメーターから数百マイクロメーターまである。珪藻は、殻の形や構造の対称性によって大きく2つのグループに分けられている。1つは円形や多角形を呈す中心珪藻で、もう1つは細長い羽状珪藻である。珪藻殻の装飾はたいてい複雑で、これらの構造や模様の違いによって分類するのが一般的である。種数は化石種・現生種を含めて約2万種といわれている。  珪藻は水中や湿ったところに、浮遊、あるいは何かに付着して広く生育し、生育場所の温度・塩分濃度・pH・BODなどに応じて異なる種が分布している。そのため、珪藻化石にどのような珪藻がいるかを調査することによって、逆にその生育場所の環境を知ることもできる。同様に珪藻化石から地層が堆積した当時の環境を知ることができる。

A 珪藻化石の観察
<目的>
珪藻を抽出して観察を行い、堆積環境を推定する。 珪藻は、淡水のさまざまな水域(小さな溝、湖沼、河川)や汽水、海水とあらゆる水域に分布し、水温、塩分濃度、各種の無機塩類に比較的過敏に反応してすみ分けている。それを手がかりとして堆積物中の軽層群集を解析することによって、堆積環境・湖水理学および古地理学的な推定が可能である。
<用具・薬品>
ビーカー、かくはん棒、スポイト、スライドグラス、カバーグラス、封入剤、ホットプレート、生物顕微鏡など
<方法>
1)乾燥した資料を適量ビーカーに取り、水を加えて放置する。
2)資料は水に溶けて泥化するが、泥化しない部分は爪楊枝や割り箸などを使って静かにつぶす。
3)水を加えて100mlとして、約20秒放置して、ビーカーの底に沈殿した粗粒物を削 除する。この操作を2回程度繰り返し得られた懸濁液をスポイドにより取り、あらかじめホットプレートの上で熱しておいたカバーグラスに表面張力で盛り上がる程度滴下して、それが蒸発するのを待つ。
4)次にホットプレートの上にスライドグラスを置く。
5)スライドグラス上に封入剤を一滴落とし、その上に蒸発させた側がサンドイッチされるように重ねる。
<資料採集場所>
@ 京都府宇治市五ケ庄(隠元橋上流500メートル地点) 地図上黄色の地点 A 宇治市五ケ庄の地点(隠元橋上流500メートル地点)の宇治川時代(1596年以降)の地層 地図上黄色の地点(@の上部で宇治川に堆積した粘土層)         B 京都市伏見区観月橋の下 地図上オレンジ色の地点 C <結果> @の調査地点では、ハネケイソウ、コッコネイス、プランツラ、ササノハケイソウ などの滞水域と流水域の両方に生息する珪藻が見つかった。(滞水域がやや優勢) Aの調査地点ではクチビルケイソウ、カスミマルケイソウ、コッコネイス、プランツラ、ササノハケイソウ、ハネケイソウ、ハネフネケイソウ、などの流水域と滞水域の珪藻が見つかった。 Bの調査地点では、クチビルケイソウ、ハネケイソウ、ササノハケイソウ、ヒメマルケイソウ、などの流水域と滞水域の珪藻が見つかった。
3・考察 @ この地層からは、滞水域と流水域に生息するコッコネイス、プラセンツラ、ハネケイソウなどの珪藻が見つかった。このことから、鎌倉〜室町時代において調査地点は、池(沼)でありながら、宇治川の水が流入する場所であったことが予想をされる。 A この地層からは、流水域に生息するクチビルケイソウ、ハネケイソウや滞水域に生息するカスミマルケイソウなどが見つかったため、当時、この場所では、流れがある沼地に泥が堆積した時期があったと考えられる。 B この地層からは、流水域に生息するクチビルケイソウ、ハネケイソウなどや滞水域に生息するヒメマルケイソウなどが見つかったため、当時、この粘土層の堆積環境は、宇治川でありながら中州の中で泥が堆積する場所であったと考えられる。



   コッコネイス、プランツラ       ササノハケイソウ          クチビルケイソウ         カスミマルケイソウ 



8.巨椋池復元図

 今回の調査で明らかになった旧巨椋池の姿を絵によって復元した。(図19)
@ 時代は鎌倉〜室町時代であるため寺院がある。
A 池の周囲には、ヒメコガネやヨモギハムシが餌とする広葉樹や草木が生い茂っている。
B 池は深さが1m以下の沼であり、ヨシが生い茂り、池にはハスが浮かんでいる。(現在も水田にハスが生息している)
C 手前の昆虫がヒメコガネである。
D 宇治川は、普段は直接は流れ込まず、水量の多い時に流れ込むものと考えた。(ケイソウに流水域と滞水域のものが混じって産出すること)



9.宇治川のレキ層から見た堆積環境

@調査方法 調査地点では、旧巨椋池に堆積した泥土層を不整合に覆って2層のレキ層が分布する。この2層のレキ層については上位と下位に分け、それぞれのレキ層からレキを約100個ずつランダムに採集し、レキ種を大きくチャート、砂岩、泥岩、花崗岩の4種類に分類した。(図20) 図20 上・下のレキ層のレキ種組成
A 次に示すグラフは、過去5年間に本校地学部の活動で調べられた大阪層群や宇治川のレキ調査の結果である。(図21) 図21 宇治丘陵のレキ種組成、宇治川のレキ種組成
B 結果 各グラフを比較すると、下のレキ層と2005年に調べた宇治川のレキ層の各レキ種の割合に注目すると、どちらも砂・泥岩が50%以上を占め、約40%がチャートであり、良く似ている。 また、上のレキ層と宇治丘陵のレキ層(2005)のレキ種の割合は類似する点が多く、チャートが60%を占めていて、花崗岩はあまり見られない。
C 考察 グラフを比較してみると、上のレキ層は宇治丘陵のレキ層と同じ起源のものと考えられる。宇治丘陵のレキ層は、大阪層群のレキ層と考えられるものであり、宇治丘陵で土石流が起こった時に、このレキ層が崩壊してもたらされたものであることが推測できる。土石流にもかかわらず、レキの形が丸みを帯びているのは、レキ層が崩壊したものであるためと考えられる。地形図からは、この付近で宇治川が湾曲しており、近辺を歩くと茶畑が点在しているのに気付く。茶畑は水はけの良い場所に作られる。土石流堆積物はとても水はけがよいことから、この付近には茶畑が多く分布しているものと考えられる。川の湾曲も、たび重なる土石流の影響であろうと考えられる。(図22) 下のレキ層は、グラフから考察すると宇治川によって運搬され、堆積された地層であると考えられる。

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